人権啓発研修

 勤務先で人権啓発研修というものが行われた。
全従業員を対象にしたものだったので私もそのうちの1回に出席した。
今回の研修の主題は、部落差別についてだった。
何十分かの講義を聞き、何十分かのビデオを見て、最後に無記名式のアンケートに答えた。
部落問題のみに限らず、「差別をなくしましょう」「差別してはいけません」と人は言う。
だが、差別は絶対になくならない。

 子供の頃、帰国子女だという理由で差別された。
日本で通った学校は1学年1〜3クラスという、閉鎖的な片田舎の学校だった。
小学校6年生の途中で転入する形をとったのだが、彼らは6年間をずっと同じメンバーで過ごしてきており、
今更異物が混入することを望まなかった。
よく『お前なんか日本人ちゃうねん!』とか『アメリカ帰れや!』と言われて
通り過ぎ様に頭を叩かれたり背中を殴られたり蹴られたりした。
昔から本の虫だった私は彼らよりも国語がよくできたため、それが彼らの嫌がらせに拍車をかけた。
『お前日本人ちゃうねんから日本語喋るなや!』『キモイねん!』と言われた。
『こいつほんまはむっちゃ頭悪いねんで。おかんが言うとったもん。帰国子女はアホなんやって』。
悔しくて英語で喋ったら『あほちゃう?何言ってんの?』『こいつ頭おかしいねんて』と言われた。
私は方言が使えず、よく『アメリカ帰りやからっていきってんちゃうぞ!』と言われた。
先生もわざとではないかと思えるくらい、国語の教科書の方言が出てくる部分を私に音読させた。
その度に教室のあちこちから笑いが起きて『読み方おかしい〜』と笑われた。
先生もくすくす笑っていた。
掃除の時間、ほうきを取ろうとすると『アメリカ人は触るな、これは日本人しか触ったらあかんねん』
と言ってほうきも塵取も取らせてもらえず、ぼ〜っとしていると、見回りに来た先生に叱られた。
事情を説明しても先生は聞いてくれなかった。
『アメリカではどうか知らんけどなぁ、日本の学校では掃除をすることになってんねん。
変な言い訳しとらんと、さっさと掃除しなさい』と言われるばかりだった。
ある調理実習の時間、スパゲティを作ることになった。
スパゲティを沸騰したお湯の中に投入した後、私は当然麺をほぐそうとした。
すると、同じ班の子達が一斉に『混ぜたらあかんって』『お前触るな』と言って妨害したので放っておくことにした。
後で先生に怒られるのは彼らだ。好きにすればいい。
やがて、乾麺は立ったままお鍋の端にひっついて焦げ始め、案の定、先生が回ってきて怒られた。
『何で混ぜないの!スパゲティがひっついてしまうでしょ!先生はちゃんと言ったはずよ!』
その途端、班の子供達は口を揃えてこう言った。
『だって先生、○○(私)が混ぜたらあかんって言って触らせてくれへんかってんもん!』
私は先生に事実を説明したが、先生の口から出たのは私に対する叱責の言葉だった。
『○○さん、アメリカではどうか知らんけどやね、日本ではスパゲティはかき混ぜるのよ。
そろそろ日本に慣れてもっと協調性を持ってもええんちゃうの。
帰国子女やからって何でも自分が正しいわけちゃうねんで。もうええ加減にしてほしいわ、ほんま』
ある日、クラスのリーダー格の男子があまりにも執拗に喧嘩をふっかけてくるのでついに買った。
殴り合い掴み合い蹴り合いになり、私はその子の胸座を掴んで彼の制服のボタンが取れた。
どこからともなく飛んできた先生にこっぴどく叱られた。
私は売られた喧嘩を買っただけだと説明しても、先生はクラスの全員が見ている前で
私に男子生徒の制服のボタンを探させ、彼の制服にボタンを付けさせられた。
そのときも『アメリカでは日常茶飯事かもしれへんけど、日本では喧嘩せんとってください。
他の子らに行儀悪いのが移るし迷惑やわ』と叱られた。
他にも、上履きを隠されたり宿題のノートを捨てられたこともあった。
私は彼らにとって言葉通り「異物」であり、異物であるが故に彼らは私を排斥しようとした。
帰国子女だというだけで、私が一体何をした?

 間もなく中学校に上がったが小学校ごとごそっと中学校に上がるため、
私に関する情報はあっという間に他の小学校から来た人間に広まり、嫌がらせもひどくなった。
私は剣道部に所属していたが、廊下を歩いているとよく『アメリカ人が剣道すんな!』という声が聞こえた。
周りを見回しても、皆くすくす笑うばかりで誰が言ったのか特定できたことはなかった。
いちいちうっとうしいので、いつもできるだけ目立たないようにしていた。
国語の時間に音読を当てられたとき、必ず誰かが私の読み方を真似して私の読む後をついてきた。
英語の授業では、嫌味ったらしく『俺が読んだら発音が悪いからみんなに悪いし○○に読んでもらおうか』
と言って私に読ませる先生もいた。
中2のとき、生まれて初めてリンチというものを経験した。
ある日の掃除の時間、雑巾で窓ガラスを拭いていると不良の卵の女の子が声を掛けてきた。
『ごめーん、ちょっといいかなぁ、ちょっと来てくれへん〜?』
掃除中だから後にしてくれと言ってもすぐに終わるからと言って聞かなかったので、仕方なくついていった。
目的地は校舎の端っこにある女子トイレだった。
雑巾を持ったまま、一体何の用かと促されるままに入っていくと、
狭い女子トイレの中に不良の女の子達がずらっと詰まっており、私が入るなり取り囲まれた。
その学校の風紀は乱れており、不良も大量にいて狭い女子トイレに十数人もの不良が詰まっていた。
『お前うっといねん!』から始まって『帰国子女やからって偉そうにすんなや!』とか
『帰国子女なんかなぁ、おるだけで目障りなんじゃ!』『お前の喋り方がむかつくっちゅーねん!』
などときんきん声で暴言を吐き、手に持っていたノートやファイルや筆箱などで殴りかかってきた。
私も殴りたかったが内申書に響くのが嫌で、何も言い返さず一度も殴り返さず、
ただひたすら触られないように払いのけ続けた。

 帰国子女だというだけで、何故妙な差別を受けたり嫌がらせをされたりするのだろうか。
帰国子女だからという理由で、私が誰かに迷惑をかけたか?
私は生粋の日本人だ。見ただけでは帰国子女だなどということもわからない。
ずっと日本に住んでいる日本人以上に日本人らしいかもしれない。
わざわざできるだけ人目につかないように目立たないようにしてきたのだから、
人が放っておいてくれさえすれば、私の存在など目にもつかなかったはずだ。
私はただ放っておいてほしかった。
不幸なことに、まだ子供だった私にとって彼らは「日本の一部の地域の更に一部の地区の中の一部の人間」ではなく
「日本人の代表」だった。
そうして、私は日本人が嫌いになった。

 私は強かった。
頭も心も肉体も同年代の子供達よりずっと強かった。
どれほど嫌がらせをされても、遅刻も早退も欠席もしたことはない。
今の時代なら、そのようなことが起きれば明らかに「イジメ」として問題になるに違いない。
何人かの大人に泣きつけば、誰か一人くらいは後を引き取って社会的問題として取り上げてくれるかもしれない。
だが、当時だから違ったのかその地区だから違ったのか、
その頃は先生が率先して嫌がらせじみたことをしているかのようにも思えた。
私は彼らのしていることを「イジメ」として受け取ったことはなかったように思う。
嫌な人種だ、と国民性として受け取った。
私は自分がされたことを決して親にも誰にも話さなかった。
話しても無駄なことがわかっていたので話そうと思ったことさえなかった。
ただ、もっと強くなろうとだけ思った。
強くなれば、平和ボケした馬鹿は近づいてこれない。
だから、殻に閉じこもった。
私は一切笑わなくなり、喋らなくなった。
常に気を張って、できるだけ物事に反応しないように無表情であるように心がけた。
近づいてくる人間は、教師であろうが何であろうが睨みつけた。
口を開かなければならないときは、可能な限り辛辣な言葉を吐くように努力した。
誰かに中傷されたとき相手が反論できないように言い返すためだけに、論理的思考をするようになった。
腕力も反射神経もいざというときのために鍛え続けた。
それが効を奏したのか、余程物好きな人間以外は寄ってこなくなり、私は安らぎを覚えた。
そうして、気難しく皮肉屋で屁理屈をこねるしかめ面の可愛げのない今の私の土台が形成された。

 どんな差別でも、差別は絶対になくならない。
会社がどんなに頑張って研修をしたところで、聞き流す人間は必ずいる。
何故なら、「自分には関係ない」からだ。
研修をするならば、できもしない「差別をなくしましょう」という研修ではなく、
「差別はなくならないのだから自分の身は自分で守りましょう」という研修をした方が堅実だと思う。

 今回の研修のほとんど最初から終わりまでずっと、一番前の席でぐっすり眠りこけているおじさんがいた。
彼にとっては、まさしく「関係のない世界」だったに違いない。






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