心理

 友人の結婚式に出席した。
久しぶりに会う友人が何人も集まった。
皆、いつ会っても何年経ってもちっとも変わらない。
集合場所に集まる順番も雰囲気も昔と同じだった。
表面的に少々変化があるように思えた人も、本質は全く変わっていなかった。
行動パターンも同じ、中には大学時代から髪型すら変わっていない者もいて、
皆の会話が噛み合わないところまで変わっていなかった。
我々は昔から話の噛み合わせの悪い集団だった。

 久しぶりに会うというのに皆自然で、まるで時が止まっていたかのように思えた。
だが、話の節々に『うちの奥さんが』とか『子供がさー』などの言葉が飛び出し始めて
やっぱり時は確実に流れているのだと思い知らされた。
当然だが、昔は誰にも奥さんなどいなかった。
当たり前だが、昔は誰にも子供はいなかった。
それが、今では「誰々と誰々の子供が同級生だな」「○月に子供が生まれる予定」
「あいつのところはいつの間にか子供がいるぞ」「○月に結婚します」
などという言葉が普通に飛び交っている。
ほぉ〜っと思って聞いていた。

 一人が子供の写真を取り出して見せてくれた。
ほぉ、前回見せてもらった写真では、まるで宇宙人のように見える生まれたての赤ん坊だったのに
今ではすっかり人間の形をして一人で歩いているではないか。
別の友人が携帯を取り出して子供が走り回っている様子を映した動画を見せてくれた。
その子供も前に携帯で写真を送ってくれたときは生まれたての赤ん坊だったというのに
今では笑いながら部屋の中をひたすら走り回る人間の子供に変身していた。

 子供の様子を話してくれる友人達の言葉に耳を傾けながら写真や動画を眺めていて、
初めは時の流れというか人間の神秘というか成長の早さというか、とにかくただただ感心していたのだが、
そのうちに、ふと自分の中にひっかかるものを覚えた。
ああ、そういえば。だからか。
私は子供が産めないんだった。
どうやら、それがひっかかるらしい。
不思議なものだ。
今までそんなにひっかかりを感じるほど意識したことはなかったはずなのに。
2回も病気をしたのは自分のせいではないし、かといって誰のせいでもないし、
当然卵巣を切らざるを得なかったのも誰のせいでもないし、当然誰を恨むこともできないし、
元々、真摯に子供が欲しいなどと熱望したこともないし、願っても仕方がないし、
早い段階でさっさと結婚してさっさと子供を産んでおけばよかったなどと後悔したこともないし、
ここはすっぱり割り切って生きていこうと思っていたはずなのだが。
それ故に誰に何を聞かれても隠すことなく臆すことなく堂々と声を張って
『私は子供が産めないのだ』と答えてきた。
それによって特に神経が傷つくこともなく、逆に周りの人が気を遣ってくれることが不思議だった。
なのに、何故今更。と思う。
今までずっと平気そうな顔をしておきながら実は心のどこかで血を流していたのだろうか。
そんなことはあるまい。少なくとも気付かなかった。
人がかわいい子供と一緒に幸せに生活している様子を目の当たりにして急に羨ましくなったのだろうか。
それは何だか、情けない。というか、浅ましい。
望んでも仕方のないことを望むなんて愚の骨頂だ。
子供などいなくても幸せな人生くらい送れるとずっと思ってきたではずはないか。
自分にそう言い聞かせはするものの、すっかり落ち込んでしまった。
何だか、病気をして卵巣をとった自分が恐ろしく悪い人間のような気がして、
無数の針を刺されているような錯覚に陥った。
人に何か聞かれたとき、これまでのように『私は子供が産めない』のだと平然と答える自信がなくなった。
しかし、本人が気にしている風を表に出すと他の人は本人の倍ほど気にするようなので
それだけは何としても避けなければならない。
気の遣い合いほど気持ちの悪いものはないからだ。
ということは、これからはその手の話題になる度に気力を振り絞って応対しなければならないのか。
それはちょっと面倒だ。
一過性のものであってくれればいいのだが。
私があの痛みを痛いと感じなくなるまで、後何回同じ痛みを味わうことになるのだろう。
私が痛みに対して鈍感になるまで、一体どのくらいかかるのだろう。

 友人達が見せてくれた彼らの子供達は本当に愛らしかった。
どうすればこんなに憎たらしい親からこんなにかわいい子供が生まれるのかと思うくらいかわいかった。
あの子供達が現代に汚されず真っ直ぐに育ってくれたら、私はきっととても嬉しく思うだろう。






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