子供時代当て

 社会に出ると、実に様々な大人を目にする。
実は、私はその大人達を観察するのが結構好きだったりする。
眺めていると、その人物の子供の頃が見えてくるような気がする。
例えば、こんなふうに。

「この人のノートはきっととてつもなくきれいだったに違いない」
「この人はきっと毎日のように遅刻をしていたのだろうな」
「この人は夏休みの宿題を7月中に終わらせる子供だったのだろう」
「この人は国語が苦手だったに違いない」
「この人はテストのときに見直しをしなかったために点をたくさん落としていたのじゃないかな」
「この人は宿題をせずに言い訳ばかりしてきたのだろう」
「この人は自分のせいで何か悪いことが起きても絶対に自分が悪いとは認めずに人や物事のせいにばかりしてきたな」
「この人はいじめっ子だったのだろうな」
「この人はきっといじめられっ子だっただろう」
「この人は自分では何も考えずに人の言う通りに動いて人の言う通りに生きてきたんだな」
「この人はほら吹きな子供だったのじゃないかしら」
「この人は怒られてばかりで怒られることに慣れ過ぎて何も感じなくなったのだろうか」
「この人はいつも自分の自慢ばかりしていたのだろうな」
「この人は毎日予習復習を欠かさずやっていたに違いない」
「この人は落ち着いて人の話を聞くことを教わらなかったのだな」
etc.etc..............

 大人には、ほうきで掃いて塵取に移しそのままごみ箱へ放り込みたいくらいくだらない人もいれば、
目を見張るほど立派で頭が下がる人もいる。
そして、その中間の人にはあまり目がいかない。
どうしても極端な人ほど目がいき、その人の子供時代を勝手に想像してはくすくす笑ってしまうのだ。
どれほど腹の立つ大人でも、なぜかその人の子供時代を想像すると何だか笑えてくる。
私の無意識のストレス解消法になっているのかもしれない。

 私にはずっと、大人を馬鹿にするという悪い癖があった。
子供の頃は「大人のくせに…」といっては大人を馬鹿にし、
大人になってからは「大人にもなって…」といっては蔑んでいた。
口に出すわけではないが、蔑んでいることはしっかり態度で表していた。
しかし、ある時私は反省した。
自分よりも長く生きている人であれば、少なくとも何か一つくらいは学ぶべきところがあるはずだ。
自分は人様を馬鹿にできるほど立派な人間ではないのだから、馬鹿にする前に人をよく見よう。
よく見て、できる限り相手のいいところを探して学び取ろう。
それでもどうしても自分が学び取れるところのない人間であることがわかったとき、
そのときこそ馬鹿にしてもいいだろう。
それ以来、人を蔑む率は少し減って人をよく見るようになった。
大人をよく見れば見るほど、どれほど頑張ってもどうしても救いようがなくくだらない人間は
絶対に存在するものだということを学んだ。
これまでの人生、一体何を思い何を考えて何をして生きてきたのだろうという疑問しか抱けない大人を
私は無遠慮に軽蔑することにしている。
ただし、私に軽蔑されるような大人は軽蔑されてもそのことに気付きもしないか、若しくは
人から馬鹿にされたり蔑まれたりすることに対して何の感情も抱いていない人であることが多いようなので
私がその人を馬鹿にしたところで全く痛手ではないらしい。

 情けないことに、世の中には呆れるほど「大人としてあるまじき大人」が存在する。
そして、年配の人間ほどそういう傾向が強いように思う。
自分が最も偉いとでも思っているのだろうか。
私はずっと「年をとればとるほど成長してできた人間になっていくものだ」と思って生きてきただけに
現実を目の当たりにするととても辛くてやりきれない気持ちになる。
しかし、私はこれからどんどん年をとる身。
せいぜい現代の「軽蔑に値する大人達」から学んで自分はそうならないように努力するのみだと思っている。
自分が悟りを開いてできた人間になれるまでは、「軽蔑に値する大人達」の子供時代でも推理して
少しでもストレスレスな人生が歩めるようにしよう。
それにしても、私の「子供時代当て」は驚くほどよく当たる。
極端に特徴的でクセある人物を限定的に観察しているせいもあるのだろうが、私は時々恐ろしくなる。
一体、人様の目に私はどのような人間に映っているのだろうか…。






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