変化

 日々の雑事に振り回されて、ふと気が付けばいつの間にか引越しをしてから既に1年が過ぎていた。
私のがたがたの人生においては珍しく、久しぶりに比較的なめらかに時間が経過していたように思う。
先日、久方ぶりに会った親戚は私のことを「随分円くなったんじゃないか」と評価していたそうだ。
正直、自分が円くなったという実感はない。
逆に以前よりもざくざく切り払うようになったような気がする。
しかし、人の目にはそうは映らないらしい。いいことだ。

 ただ一つ自分で感じられるのは、以前より随分明るくなったということだろうか。
自分の近年の洋服を見てもそう思うことが多い。
何といっても色のついた服を抵抗なく着られるようになった。
一昔前の私ときたら、上から下まで真っ黒だった。
春夏秋冬、黒以外の色の物を身につけることがほとんどなかった。
春・夏・秋は黒のTシャツ・ブラックジーンズ・黒い靴下・黒くて重い靴・黒い鞄・黒い腕時計・黒いピアス、
そして、髪を加工することはなかったのでもちろん黒。
冬になるとその格好の上に黒のコートが加わった。
髪の毛は全体が長くても短くても基本的に前髪は長く伸ばして何かあったときなどに
外界から自分ををシャットアウトするシェルターの役割りをさせていた。

 それが、今はどうだ。
基本が黒ということには変わりないが、上から下まで真っ黒という格好をする頻度は随分低くなった。
さすがにパステルカラーを身につけることはないが、チャコールグレーも着ればモスグリーンも着る。
時として、何となく落ち着かないがベージュの服を着ることもある。
それには自分でも驚いた。
黒以外なかった昔の自分には到底考えられない色だった。
前髪も以前のように薄気味悪く伸ばすことはあまりなくなり、
異様に伸びているときというのは切るのが面倒で放ってあるときくらいだ。

 考えることも少しずつ変わってきた。
以前は常に自分の存在意義について考えていたように思う。
来る日も来る日も何時間も自分の存在意義を自分の頭の中だけで探し回って探し求めて
結局見つからなくて一人で落ち込んでいた。
しかし、今はあまり無駄な存在意義の求め方をしなくなった。
無論、折に触れて自分の存在意義について考えて思考の迷路をさまよう。
でも、その結果何も見つからなくても以前のように底なし沼に沈み込むことは少なくなった。
気持ちの切り替えが少しずつうまくなっている気がする。

 年明け早々、私にとてつもなく素敵な出来事があった。
とてもとても私には似つかわしくないくらいもったいない素敵な贈り物をもらった。
一昔の私なら、素敵な出来事というものは意識的に避けていた。
何故か、素敵なことがあると絶対にその後でとんでもなくひどい目に遭うという不安があった。
ひどい目に遭ったとき、その前にあった素敵なこととの対比が大きければ大きいほど落ち込みが激しくなる。
それに、私には素敵なことなど絶対に起こり得ないと思い込んでいた。
しかし、今年は違った。
年明けにあった素敵な出来事は何の抵抗もなく、するりと私の中に入って勝手に心に納まった。
素敵な出来事というのはこれほどまでに素敵な気分がするものか、と非常に落ち着いた気持ちで思った。
ただひたすら素直に何の疑問もなくただただ嬉しく心地よく、またそれは不思議な感覚だった。

 現在から見て過去に当たる時期に身を置いていたある時点で、よく
今のこの瞬間この時間は何と無駄なのだろう、自分がこの場に生きていることに何の意味があるのか
と思って腐っていた。
自分の人生の中のその時間が無駄で無駄で仕方なく思えた。
自分が何故そのような無駄な時間を過ごしているのかさっぱりわからなかった。
そのまま生き続ければ、自分の将来において無駄な時間を過ごしたことを確実に後悔するだろうという自信があった。
無駄な自分が情けなくていつも密かに焦っており、それを隠すために何に対しても牙と爪を剥き出しにしていた。
人が自分に近づくことを嫌い、自分の中に踏み込むことを徹底的に拒絶していた。
友達と一緒にいるときでも楽しくなく、しかし不満そうな顔をしていては友達に申し訳ないと思い
気を遣って無理に楽しそうな風を装ったりもしたが、無駄なことをしているようで常に空しかった。
そんな私にあるときある先輩が『人生において無駄な時間なんてないんよ』と諭してくれた。
彼女もいい加減波乱に満ちた人生を歩むことを常としていたが、私はそのときは先輩の言葉を聞き流した。
先輩なだけに失礼な態度は取れないので返事こそしたが、本当は全く理解していなかった。
人生において無駄な時間などないなんてこと、あるわけないじゃん。実際こんな無駄なのに。どれだけオメデタイ人なんだ。
内心そう思って一人で腐り続けていた。
先輩の言葉はずっと心に残ったが、過去を振り返り現在を考える度に
やっぱり自分が無駄な時間を過ごしているとしか思えず、どうしても先輩の言葉は脳に馴染まなかった。
今は彼女の言葉が理解できるような気がする。
過去の私があったから今の私がある。
社会の中でぬくぬくと生きてきた人間は甘ったるく見える。
そういう見方をするのは決してよいことではないし、無論先輩もそんなつもりで諭してくれたわけではないが、
そのような眼力も訓練(?)の賜物だと思えば楽しくないこともない。

 私の生きてきた過去は、少なくとも私自身にとっては決して無駄ではなかったのだろう、と今思う。
将来のいつか、どこかの地点において、やはり無駄な生き方だった無駄な時間だったと思うときがくるかもしれないが、
少なくとも、自分の過去を認めることができるようになったというのはちょっとした進歩だと思う。
しかし、少しずつ進歩できているのは決して私自身の力ではないことは自分が一番よくわかっている。
数年前からずっと私の心を救い上げ続けてくれている人に、私は心底感謝している。






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