プレゼントすることの楽しみ

 誰かに贈り物をするのは楽しい。
贈り物をするとき、人は何を基準に何を思って何を贈るのだろうか。
理屈から言えば、相手の欲しがっている物を確認し、それを贈り物にするのが最も適切だと思う。
相手は喜び、相手の喜ぶ様子を見て自分も嬉しい。
だが、それでは相手が喜ぶことがわかりすぎているので今ひとつ面白味に欠けると思う人はいないだろうか?

 私はまさしくそう思う人なのだ。
ひねくれ者かもしれない。
大人じゃないかもしれない。
だが、私はどうせ贈り物をするならば自分ももっとわくわくしたい。
自分が昔サンタさんにクリスマスプレゼントをもらっていたつもりになっていた頃のように
わくわくどきどき楽しみたい。
だから、人に贈り物を贈るとき、相手の希望を聞かずに自分で相手の好みそうな物を選んだりしていた。
だが、やはり人の想像力には限界がある。
例えば、私は女だが他の女の人とはほんの少々物事の感じ方が違うらしく
必ずしも相手が私の選んだ物を喜んでくれるとは限らない。
むしろ、その逆の可能性の方が高いといえなくもない。
それならば、ということで世の通例に従って相手の希望を聞き、それに順ずる物を贈った。
だが、やはり自分の楽しみが半減してしまった。
そこで、私は考えた。
結果、相手の希望に添う物に追加して自分の選んだ物を送ることにした。
すると、相手は自分の欲しい物をもらえたという喜びと、思いがけないおまけがついてきた驚きと
もし、おまけが自分の好みに合ったものであれば、そのおまけに対する喜びを感じることになる。
私にはその表情の変化を眺めるのが至福の楽しみなのだ。
おまけには、よほど自分の心に響く物を見つけたときを除いて基本的にさほど高価でない物を選ぶ。
高価な物だと相手がそれを負担に感じると楽しくないからだ。
自分の楽しみはあくまでおまけ的要素以上のものを持ってはならない。
贈り物はあくまでお互いが楽しく。が基本だと思っている。
せっかくの機会なのだ。相手を楽しませ、自分も楽しんだ方がいい。

 私は「もらったから返さなければならない」という考えが大嫌いだ。
『○○さんにお誕生プレゼントをもらったからあの子のお誕生日には何かあげなきゃ』
『私は○○さんと○○さんにお誕生日プレゼントをあげたから自分の誕生日が楽しみ』
『あの人、私が○○をあげたのに何も返してこないの。こんなことならあげなきゃよかった』
こういう発想はナンセンスだ。
プレゼントというものはあげたいからあげるのであり、相手の負担になるためにあげるわけではない。
少なくとも私は常々そう思っている。
だから、自分があげたプレゼントに対して『あの時□□をくれたからお返し』
などと言って贈り物を渡されると興醒めしてお断りしてしまう。
そのような露骨な表現でなくとも、少しでも「お返し」的要素を含む贈り物はもらわない。
別にお返しが目当てで贈り物をしているわけではない。
何かをもらったらお返しをしなければならないと、義務のように思っている人はそう言ってほしいと思う。
そうすれば、私はその人に物を贈ることをしないはずだ。
何といっても、義務化された贈り物は楽しくない。

 これからもきっと、私は思い付きで人に贈り物をすることだろう。
私のささやかな楽しみのうちの一つだから。






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