イチャモン

 人通りの多い往来を自転車で走っていたときのこと。
私はいつものように人にぶつからないよう最大限の注意を払っていた。
不注意で予測不可能な行動に出る歩行者にぶつからないように自転車で走るのは難しい。
だが、私はいつもとてつもなく神経を遣いながら走っている。

 私の少し前を歩いていたおじさんが、それまではまっすぐ歩いていたが
信号のところで周りを確認することもなく唐突にふらっと右に曲がった。
歩行者にはよくあることだったが、そのおじさんの場合は本当に突然だったので驚いた。
普通に走っていればそのままおじさんに激突していただろう。
しかし、私は一定の距離を取っていたことと常にある程度の危険に対する準備をしているため
おじさんに衝突するという事態は免れ、腕と腕がぶつかる程度で済んだ。
周りの様子をうかがうこともなく不用意に進路変更する歩行者を少々恨めしく思いつつも
人を傷めなくて済み、自分もそれほど痛い思いをせずに済んだと少しほっとしながら走り去ると
1つ先の信号が赤になったので止まった。

 たくさんの車が走っており、たくさんの人が信号待ちをしていた。
後ろからばたばたと人の走る足音が聞こえたと思ったら、突然男の怒鳴り声が私に降りかかった。
『おい!人にぶつかっといて一言もなしかぃ!』
周りにいた多勢の信号待ち人達は一斉にこちらを見た。
自分が怒鳴られているのだと理解するのに数秒かかったが、どうやらさっきのおじさんが
信号1つ分走って私を追いかけてきたらしいということがわかった。

 おい、ちょっと待てよ。確かにぶつかったのはぶつかったけれども、悪いのは誰だ。
田舎道じゃあるまいし周りに注意を払わなかったお前が諸悪の根源だろう。
私はわざわざ危機回避してやったんじゃないか、謝ってほしいのはこっちの方だ、馬鹿馬鹿しい。
そう思いながら、息を切らせてまで走って追いかけてきたおじさんに少し呆れて言葉もなく黙っていると
おじさんは更にねちっこく大声で怒り始めた。
『なぁ!どないやねん!』『お前ぶつかったんちゃうんかぃ!』
早く信号が変わらないかと前を向いたが信号が変わる気配はなく
周りの人々は好奇心を剥き出しにしてこちらを見ており、非常に居心地が悪くなった私はとあえず謝ってみた。
『すみません』
謝ったのでもう用は済んだだろうと思って前を向いて信号が変わるのを待ったが
私が謝ったことによって勇気づけられたかのようにおじさんはますますねちっこくイチャモンをつけ出した。
『歩道は自転車も走っていいことになってるけどなぁ、周りに注意せなあかんねん!』
『人にぶつかったら、それは立派な交通事故やぞ!』
私はおじさんの希望通り謝ったのにこれ以上何をどうしろというのかと思って無視した。
すると、激高したらしいおじさんは
『なぁ!何とか言えや!警察呼んだろか!おい!警察呼ぶぞ!』
と今にも掴みかかってきそうな雰囲気になってきた。

 恐ろしく冷めた気持ちでじっくり観察すると、気の弱そうな40代半ばと思われるサラリーマン風の男だった。
例えば私がチンピラのような様相をしていたとしたら、この人はやはり追いかけてきて怒鳴り散らすのだろうか
この人は自分よりも弱そうな人間に対して怒鳴り散らすことによってストレスを発散するしかない憐れな人間なのだろうか
そんなことを考えていると信号が変わった。
そのまま黙って走り去ろうかとも思ったが、あまりにも至近距離にいたため
無視して走り去ろうとした瞬間に掴みかかられても無駄な時間を使うことになると判断し、
不本意ながら再度謝っておくことにした。
あまりにも気が進まなかったのでついつい睨みつけながら謝ってしまった。
『すみませんでした』
謝ってからまだ何か言うかと思ってしばらくおもいきり睨みつけながら様子をみていると、
まだ何か言いたそうではあったがそれ以上何も言わなかったので私は去った。

 妙なおじさんのせいで非常に迷惑な思いをした。
歩道は自転車も歩行者も通る。
だが、気をつけなければならないのは自転車だけなのだろうか。
私はあれ以上の対応はできなかったと思っているし、普通程度の常識を持ってさえいれば
悪いのは私だけではなかった、それどころかおじさんの方が悪かったということがわかるだろう。
それがわかっているのに、私は謝ってしまった。
二度も。
人の目が気になったとか妙な人間には関わりたくなかったとか時間的に余裕がなかったとか
理由はいくつもあるとはいえ、屈しておとなしく謝った自分が気持ち悪い。
申し訳ないという気持ちのかけらもないときに便宜上謝るというのは何と不愉快なことか。
自分で自分が嫌になり、言葉通り自己嫌悪に陥る。

 しかし、謝りたくないからといってあの場で私はどうすればよかったのだろうか。
おじさんの胸座でも掴んで
『ふざけんな、てめぇがふらふら歩くからいけないんだろうが。そっちこそ周りに気をつけろ。
警察だろうが何だろうが呼びたければ呼べよ、ただ後で後悔するのはそっちだぞ』
とでも言っておじさんを地面に叩きつけてやればよかったのだろうか。
本当に怒ったら、私ならその程度のことはやりかねない。
そして、そうしたことによって特に罪悪感も感じないだろう。
しかも、そうしていればおじさんもすぐに黙ってそれ以上絡んでこなかっただろうと思う。
だけど、少なくとも理性があるうちはそんな野蛮で非道徳的なことはしたくない。
人として、人を力で抑えつけるような真似はしたくないと思う。
だから、私は我慢した。
我慢することによって、私は屈辱を味わった。
でも、私があの場で我慢しなければおじさんが屈辱を味わうことになっていただろう。
どっちがよかったのかはわからない。
若しくは他に何か方法があったのかもしれない。
私にはわからない。

 人というのは難しいと思う。
自分を「正」であると定義すれば、それに沿わない人間は「誤」だ。
自分が「正」だと思っていてもどちらかの「正」が「誤」になってしまう。
それを、双方が「自分が正」だと言って譲らなければ、平行線が交わることは永遠にないだろう。
そして、いかなる理由であれその平行線を無理やり交わらせる必要が生じたとき
弱い側若しくは理性があって物事がわかっている側が表面上だけでも譲らざるを得ない。
理不尽な話だ。
今回の場合、私は自分を「正」だと思っている。
しかし、おじさんから見れば自分が「正」で私が「この上なく誤」に思えたのかもしれない。
それとも、もしかするとおじさんは単に虫の居所が悪くて
私を「無理やり誤」にすることによって鬱憤を晴らしただけかもしれない。
私にはわからないが、やはり考える。
もしも私が強面の屈強な男だったら、おじさんはわざわざ追ってきてまでしつこくイチャモンをつけただろうかと。
もしも私が女でか弱そうでおとなしそうで御しやすそうに見えたからストレスの捌け口に使ってやろうと思ったのであれば、
その時こそ本当に、私はあのおじさんをこっぱ微塵に叩きのめしてやりたい衝動を抑えることはないだろう。






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