単なる表現

 ある休日、古くからの友人が私を誘い出してくれた。
その友人は休日は人との交流を断ちがちな私を気遣ってくれているのか知らないが、
比較的外に誘い出してくれる頻度が高い。
出不精な私はその度に自分勝手な気分の都合で断ることが多い。
その誘いというのも特に強制的なものでもなく、ほとんどが○○があるから時間があったらおいで、というもので
極めて身勝手な私は断りの連絡を入れることもなく、ただ行かなかったりする。
それでも何かと誘ってくれるその友人はなかなか心が広いと感心する。

 さて、今回は珍しく私の気が向き、誘いに乗る決意をした。
今回も、時間があったらおいで、という誘い方だったので特に返事も返さなかった。
しかし、その日は朝からひどい頭痛のため起き上がることができなかった。
げんきんなもので、初めから誘いに乗るつもりがなく断りもなく誘いに乗らないときは罪悪感も感じないくせに
自分に行く気があって行けなかったときは罪悪感でいっぱいになる。
相手にとっては毎度のことなのだが自分にとっては全く違う。
そこで友人に言い訳のようなお詫びのメールを送った。
「今日は行くつもりだったが頭が痛くて行けなかった」というような内容だったと思う。
そういえば、お詫びの言葉はどこにも一言も織り込まなかったような気がするが、長い付き合いだしきっとわかってくれているだろう…。
やがて「今は頭は大丈夫なのか」という返事が返ってきた。
「今は頭はもう大丈夫だ」と返事を書きながら、ふと「頭は大丈夫」という表現が引っ掛かった。
どう考えてもあまりいい気分ではなかったので表現の訂正を依頼した。
「せめて頭痛と言って」
どうでもいいようなことだったが、彼女は律儀に「頭痛」と訂正してメールをくれた。

 そして私は考えた。
「頭が大丈夫」という表現はどうして引っ掛かるのだろうか。
特におかしいところはないし、意味もちゃんと伝わる。
それなのに、できれば使ってほしくない表現のような気がする。
これは一種の条件反射のようなものなのだろうか。
人には理解し難いことをする度に、『お前頭は大丈夫か』という言葉を浴びせられたという経験が幾度もある。
経験則から「頭は大丈夫か」という表現は俗に人を蔑んだり馬鹿にしたりするときに用いられる表現であることが
心と脳に刻み込まれているのかもしれない。

 妙な条件反射が身に付くことの是非はともかくとして、改めて人間の心や感情というものに着目した出来事だった。






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