感情と言葉

 いつの頃からか、言いたいことがあっても押さえ込んで言葉を飲み込んでしまうようになった。
一つには、私が言葉を発すると、それはどうやら人の耳に必要以上に厳しく皮肉で辛らつに響くらしいから。
私が意見を述べると、よくその場の空気が凍りつく。
また一つには、経験則から「こいつには言っても無駄だ、不愉快な思いをするのは結局自分だけなのだ」
という諦めのような意識が働くから。
これらは別に自分や人を傷つけることがどうとかこうとかいう考えは全くどこにもない。
ただ単に周囲との調和を乱さない為に黙っているだけだ。
要するに、関心がないのだと言えなくはない。
だから、発言を求められれば思っていることをそのまま言う。
その結果空気が凍りつこうが人が不愉快な思いをしようが、それは私が引き起こした結果ではない。
それ故に自分の発言を気にもしなければ後悔もしない。
迷惑にすら思う。
私はちゃんと自分の言葉を飲み込むことによって予防策をたてていたのだから。
冷たいかもしれないが、私に意見を求めてきた相手が悪いのだと思うことにしている。

 そして、それらとは全く異なる感情が働いて言葉を飲み込んでしまう場合がある。
これは、昔の私にはあり得なかった感情であるように思う。
自分がここで言葉を発することによって相手が傷つくかもしれない、
自分の発言は相手の思っていることとは異なるが故に気分を害するかもしれない、
更に、そのことによって自分が相手に嫌われるのではないか。
それが何となく恐ろしい。
だから、言葉を飲み込む。
「もしも」「もしも」が頭を駆け巡り、結局言葉にならない。
数年前までは、自分のそのような変化に戸惑いを覚え、何と臆病になったことかと嘆いたものだが、
近年は、実は臆病になったのではなく大人になったのではないかと思うことがある。
実際はどうなのだかわからないが。

 最初の2つの理由であれば、自分が言葉を飲み込むことに抵抗がない。
何故ならば、自分の言葉などどうでもいいからだ。
少なくとも、自分が喋らないことによって何の弊害もない。
だから、後々まで引きずることがないのだと思う。
だが、困ったことに3つ目の理由によって言葉を飲み込むと、それは非常なストレスになる。
言いたいこと、聞きたいことがどんどん溜まるばかりで苦悶の日々を送らざるを得ない。
考えたくなくとも自然と考えてしまって夜も眠れぬ日が続く。
時として、自分の中で整理をつけて言い方を選んで言葉にしてみようと考える。
「こう言いたい、しかし…」
「これを確認したい、だが…」
「どうなのか聞きたい。でも…」
そうして、臆病風に吹かれた私はやはり言葉にできずに感情を自分の中に閉じ込める。
「もう少し…」
「もうしばらくしたら、もしかすると…」
根拠のない希望的観測だけがぐるぐる回り、
それ故に余計に頭の中が混乱する。

 人というのは、もしかして皆このように苦悩の日々を送っているのだろうか。
だとすれば、それではあまりにも辛い。

 そろそろ意を決してぶちまけてみようかな。
いや、しかし、でも、だけど、だけど、だけど…






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