花火の日

 花火大会の日が私は嫌いだ。
花火自体は大好きだ。
一人でささやかに眺める線香花火も、花火大会などで見る大きな花火も。
花火は華やかで美しく、そして儚い。
だから、余計に美しい。
花火が消えた後にわずかな喪失感のようなものを感じるが、それもまた一興。

 私が嫌いなのは花火の日である。
その理由は浴衣にある。
花火の日は若い女の人がここぞとばかりに浴衣に身を包む。
その着こなしが汚い。
着こなしだけでなく一挙一動すべてが堅気の浴衣にそぐわない。
堅気の浴衣という表現はあまりうまくないかもしれないが、要するに汚いのだ。
私は彼女たちを「オイラン(花魁)」と表現する。
ある人は「セキトリ(関取)」と表現していた。
そのあまりの的確さに大笑いしてしまった。
とにかく、情緒がまったくない。
派手でけばけばしくて毒々しく品がなくて安っぽい。
煙草を吸いながらふんぞり返ってがに股で歩いているのもごろごろいる。
浴衣にブランドものの鞄はまったく似合わない。
いい歳をした大人が蝶々の触角のような髪飾りをつけているのを見ていると、
花火大会なのだか仮装大会なのだかわからなくなってくる。
本人達は満足して得意になっているようだが見苦しいことこの上ない。
そんなちぐはぐなのばかりがうろうろしているのを見ると嘆かわしいだけでなく悪寒が走る。
大きな花火大会の日などはおかしな生き物の集まりのようになる。
清楚さのない浴衣姿はただただ見苦しく汚らしいだけだ。
そういうわけで、私は花火の日が嫌いなのだ。

 極々稀に、まともな浴衣姿の人をみかけることがある。
身に付ける物がちぐはぐでなく、着こなしも綺麗で背筋がぴんと伸びており風情がある。
品のある歩き方をしてげへへへなどと大笑いしない。
いい意味で、どことなく張り詰めた雰囲気を漂わせている。
そういう人を見ると非常に涼しげで見る方も楽しい。
尤も、そのような人は本当に本当に極めて稀にしか見ることはない。
残念なことだ。


 と、久しぶりに文章を書く気になって書いてみると、このように辛らつな言葉が出てくる。
私はなぜこれほどまでに辛らつなことしか思い浮ばないのだろうか。
ある意味、不思議だ。
どうして、もっと現代というものに馴染んで溶け込めないのか。
昔から毒舌家であるとは言われてきたものの、ここまでとは思わなかった。
そういう性格なのかなぁ。
反省すべきか否か…。
反省しても無駄だろうから、やめておこう。






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